fgoインドその1

2019年7月8日 日常
メモ。客観的記述、解釈、主観的判断推論の混合
2部全体に対する自分の所感も併せて
ねたばれあり


①何と闘っていたのか。何が争点だったのか
・間違った輪廻
剪定インドの輪廻は間違った輪廻だった。この輪廻はおかしい、という最低限の直観が大義名分となり、カルデアは任務を遂行していく。

※剪定インドの輪廻が間違っていること、はカルデアが剪定インドを切除する直接の理由ではない。カルデアは剪定インドの輪廻が編纂インドのそれよりも優れていたとして、尚剪定インドを切除しなければならない。(そもそも果たして編纂事象の観点から、剪定事象の事柄に対して価値付けを行うことが可能なのか?という点は保留。編纂側からは剪定事象のどのような事柄も「間違っている」としか思えないのではないか。という想定は十分に可能ではある。)

これまでと同様、幸いにもカルデア(地獄を自称する21世紀の人たち)にとって間違っていると思われる世界を、正していくお話。カルデアの任務とは単に剪定事象を切除することだが、それを「間違った輪廻を止める」という大義でカモフラージュして物語は進行する。これ以上皮肉を込めてカルデアの任務の二重性に言及しても仕方ないので、後者の大義名分の方を掘り下げてみる。

・間違っているとは?
剪定インドの輪廻は、「不出来なものが排除される」輪廻。巡るたびに「不出来」と認定されたものが排除されていく。さて、この輪廻の何が、問題とされたのか。
その1:「不出来なものが排除されること」そのもの
輪廻において「不出来なものが排除されること」、自体がまず問われる。「不出来だからといって排除するのか!?」という批判は物語上出てきたが、もう少しその違和感の内実を問いたい。
というのも神話的倫理観において一般に(われわれプレイヤーがカルデアと同じ視点を持つと(少なくとも物語上は)想定するならば、編纂事象とはわれわれが生きるこの経験世界に他ならない(この点はホームズの21世紀は地獄発言などを鑑みても、fgoの編纂事象が現代のわれわれにとっての一般的な経験世界を想定していると考えることは不自然ではない。そもそもfgo第1部ラストのレイドバトルは、われわれの生きる世界と連動して2016年末に、2017年の存亡をかけた戦いとして演出されていた))浄化はスタンダードな思想であり、「排除」即「間違い」ではない。魂の浄化、というのは輪廻思想の基本的価値観である。「排除」がそれ自体端的に「間違っている」わけではないことは、例えばアスクレピオスの件に顕著であり、ようは程度の問題なのだ(毒と薬の境界は度合い(過ぎれば・・・)の問題である)。つまり、「不出来」「排除」という判断の程度、ないし規準が問題となっている。

その2:誰にとって「不出来」なのか
物語上、様々なキャラクターが「不出来」を担ったが、その判定基準は一様ではない。狂ナタ:自分と相容れない存在が同居する自身の様態が「不出来」。この判断基準は多分にナタ本人に委ねられている。テル:彼の場合、彼自身と神ジュナという2つの規準が存在する。神ジュナにとっては子供のについての記憶が「不出来」であり、対して彼自身にとってはその記憶の欠如こそが「不出来」である。テルの件では神ジュナの規準とテル(そして編纂事象側)の規準の対立が明確になる。アスクレピオス:彼の場合、神ジュナは無関心だが彼自身の暴走した価値観が剪定インド輪廻の排除の規準を対応しているかに(一見すると)描かれている。ここでは個別トピックが問題となるというより、その程度が問題となっていた。等々
まあともかく物語上、「不出来」規準が様々あったわけ。特に分かりやすいのはテルの件で、カルデア側にもテル自身にも、少なくともテルが子供について忘れているのは「間違っている」という共通の直観がある。ここで、子供についての記憶を「不出来」とみなした神ジュナが、問われることになる。つまり、神ジュナの「不出来」規準は直観に反する、ということ。一個人の決定が多角的に見て問題含みなのは当然のことで、剪定インドではまさに一個人の決定が「排除」の規準となっている点で、カルデア側(プレイヤー側)はそれを「間違っている」と断じることができる。となるとこの観点からみれば、われわれが剪定インドでやったことというのは、要するに独裁制に対する政治的な抵抗だった。(後述の通り剪定インドは一貫して神と世界の話で、これまでのように国、民といった枠組みがないが、プレイヤーの攻略は民族反乱を組織する、という政治的アプローチ。)

その3:「排除」の意味
剪定インドにおける排除ってなんでしたっけ。
剪定インドの輪廻は一周したタイミングでデータを抽出して、手を加えてロードし直すというもの。新たな輪廻上に残された各々の存在は、神ジュナによる再構成を経た存在だ。この諸々の存在の再構成の過程で、神ジュナによって「手が加えられること」が「排除」であった。この「排除」の痕跡が、再構成された側では「記憶の欠如」ないし「記憶の残滓」という形で現われ、物語上では「排除」の悲壮さを演出したり、キャラクターの神ジュナへの「抵抗」の狼煙となったりする。さて、このような「排除」に対してカルデア側は直観的に反発するわけだが、他方剪定インドで再構成される諸々の一般人にとっては多少の違和感はあれど大問題という風でもない。抵抗運動が組織されるのはまずコヤンちゃんの悪趣味な干渉を経てのことだし、アーシャちゃんが父の不在に違和感を覚えるのは多分にカルデアとの接触という経緯が影響していると考えられる(犬の時点では綺麗さっぱり忘れている。父は犬より、とは言えるだろうが)。つまり、「排除」=「再構成」は剪定インドの内側では問題となっていない単なる摂理に過ぎない。これを問題視している、させているのは少なくとも剪定インドの外の価値観であるとみる必要がある。

整理
☆カルデア側が問題視したのは①まず「不出来なものが排除されること」。②それは次第に神ジュナが「不出来」=「排除」の判定基準として振る舞うこと。へと具体化され、③その背景には「記憶の欠如」や「記憶の残滓」という形で表された「排除」に対する直観的な忌避感があった。
☆「排除」=「間違い」ではない/神ジュナとは異なる「不出来」規準が確かに存在し、それらはしかしカルデア側であったり、編纂事象出身のサーヴァントであったりと、いずれも剪定インドの外の価値観であった/「排除」が問題視される過程には剪定インドの外からの干渉があり、剪定インド内で神ジュナの規準が大きく問題視されたわけではなかった。

以上を踏まえて以下少し考えてみたい

②正しい輪廻の到来?
カルデア一行は神ジュナを倒し空想樹を切除し、もはや剪定インドは輪廻しない。マシュ(withぐだ)はどうしてもとアーシャに会い、父の存在を思い出させ、正しい輪廻の到来の可能性を夢想させる。なかなか問題含みの件。「記憶の残滓」を残すこと、マシュが為した行いを、意図は違えど既に行っていたのは他ならぬコヤンちゃん。思い出させること、は結果的に抵抗運動の呼び水となり、それは確かに意義のあることであったのかもしれない。しかしコヤンちゃんが好んで行うことからも明らかなように、それは剪定インドの一般人を苦しめることでもある。
だから良いとか悪いとかは一旦置いておくとして、そもそも剪定インドとはどういう世界でしたっけ。
ジナコはしきりと神ジュナの輪廻操作をゲームに例えて語っていたが、実際、剪定インドとは神ジュナがプログラムして稼働させているゲーム的空間だと言える。剪定インドという世界は、異界の使徒やクリプター、そしてカルデアからの干渉がなければ、神ジュナによって無限に巡らされ、浄化されていくだけの世界。他のロストベルトの王、例えば象さんやスカスカのように国や民という単位で思考し行動するのではなく、神ジュナにとっては神ジュナ自身と彼が巡らせる世界があるだけである。剪定インドとは神ジュナによって操作されるゲーム的空間であり、彼のゲームプレイ、いやむしろデバック作業が輪廻として語られている。そんな剪定インドからプレイヤー、デバッカーの存在が消え、プレイ=デバック作業も行われなくなった。カルデアの干渉を経た剪定インドとは、もはや稼働しないゲームプログラムのようなものだと考えられる。

剪定インド世界のゲーム空間性は、その世界を生きるキャラクター描写からも窺える。今回、剪定インドのキャラたちは分かりやすく自我のあるキャラ、自我の認められないnpcに二分されている。これは先に述べたように剪定インドの物語が政治反乱の組織という展開をみせる都合上、そこに生きる人々との交流が比較的密であったことからの帰結でもあるが、物語上プレイヤー目線で自我を認められるキャラとは「祈らず」「戦う」人々である。「祈る」村長は不自然なまでに輪廻に合わせてキャラが変わり、まさに剪定インドを生きる人のnpc的な様態を象徴し、他方で「戦う」ことを選んだ人々は初めてカルデア側と交流し、単なるnpcではない自我を持つものとして描かれる。剪定インドにおいて自我を持つのは神ジュナに「祈る」のではなく神ジュナと「戦う」人々であり、アジャイやアーシャなどの剪定インド側の重要キャラたちは「祈る」だけの在り方に違和感を持ち、次第に戦う意志を示す。注意したいのは、神ジュナのいる世界において、「祈る」にせよ「戦う」にせよ、その対象は神ジュナであり、つまり自我を持つか否かというのも神ジュナを規準に図られる。自我を持ち、npcの状態を脱することすらも、剪定インドにおいてはまず神ジュナが規準となるのだ。さて、物語終盤、神ジュナと「戦う」ことを選んだキャラは軒並み「排除」され、一番最後の輪廻の段階では「祈る」人、つまりnpc以外は存在しない世界となった。この中で唯一の例外はアーシャちゃんだ。先の輪廻においてアーシャちゃんは「祈る」人ではなかった。「戦う」父の負傷をきっかけに自身も「戦う」ことを選んだ。だが父だけが「排除」されアーシャちゃんは「戦う」理由を失う。最後のユガにおいて神将サーヴァントに石弓を向けたアーシャが、翌日には「祈る」存在と化しているのは、「父」という「戦う」理由を忘却した状態で再構成されたからだ。最後の輪廻の段階で「戦う」人々が「排除」され、抵抗を組織するというベクトルが頓挫したことから、プレイヤー目線ではほとんど一般人たちの描写が為されなくなる(等しくnpc化する)が、この段階で神ジュナの世界には唯一の例外としてかつて「戦う」存在であったアーシャちゃんがいるということになる。

マシュがアーシャちゃんに父の記憶の残滓を与え、父の存在を思い出させるという極めて残酷なこと(繰り返しになるが、この行為が残酷であることは私の価値観上の問題ではなく、それが本来コヤンちゃんの所業であることから物語上明らかである)を実行する背景には、アーシャちゃんが「祈る」存在ではなかったこと、単に神ジュナの世界のnpcではなかったこと、がある。マシュたちにとって、そしてプレイヤーにとって、アーシャちゃんはただ「祈る」存在ではなかったからこそ、父の存在を忘却したnpc状態に彼女を留めておく事は憚られる。例え剪定事象にも正しい輪廻がくる、などという嘘に支えられた欺瞞だとしても、われわれはアーシャちゃんをnpcのままにしておくことは、もはやできなかった。

ここまではプレイヤー目線の話である。「祈る」村長と「戦う」アジャイの間にnpcと自我を持つキャラの差異を見出すのは、あくまでプレイヤー目線である。言い換えれば剪定インドの外の目線である。また神ジュナなき後の剪定インドが稼働しないプログラムであるのも、剪定インドの外からの目線である。剪定インドの中を生きる人々にとっては、「祈る」村長も「戦う」アジャイも等しく同じ世界を生きる人に他ならない。みな等しく同じ世界を生き、同じ世界に対して等しく無知である。それは神ジュナが倒れ輪廻が止まった剪定インドにおいても同様である。もはや「祈る」人しかいない世界は、祈る対象のないままに、輪廻せず緩やかに終わっていく。人々は等しく無知のまま終わる世界で「祈る」。

さてアーシャちゃんは「祈る」対象がいないことを知らされる。彼女は「祈る」存在ではなかった。しかしもはや「祈る」存在である。そのことは彼女にとって、何も問題のないこと、当然のいつもの生、生きることだ。それは単に剪定インドの中では、神のゲーム空間の中では、という話ではもはやない。剪定インドはもはや神ジュナのゲームではないのだから、彼女たちが「祈る」ことは掛け値なしに端的に現実である。滅びゆく世界で「祈る」ことは彼女たちの現実である。マシュぐだの行為の問題点は、単にコヤンと同じ残酷な仕打ちをした、という点にあるのではない。神の不在において滅びゆく世界において「祈る」こと、それは端的な現実であり、そのことを認識させること自体は難しいことであったとしても罪ではない。マシュぐだの罪とは、滅びゆく世界で現実において「祈る」アーシャちゃんに対して、「到来するかもしれない正しい輪廻」という嘘の祈りの対象を与えてしまったことだ。剪定インドの人々は滅びゆく現実において「祈る」=「生きる」だろう。この最後の世界において、唯一の例外であったアーシャちゃんは、あるいは「祈り」の対象の不在に向き合い、その中でなお「祈る」=「生きる」ことができたのかもしれない。しかしマシュぐだは「正しい輪廻」を新しい「祈り」の対象としてアーシャちゃんに与えてしまった。既に確認したように、剪定インドにおいて「排除」を介して巡る「間違った輪廻」は単なる摂理だった。「間違った輪廻」において「祈る」ことはnpc的であったとしても嘘ではなかったはずだ。対してマシュぐだが語りアーシャちゃんに夢想させた「正しい輪廻」は、剪定インドにおいてはそれ自体端的に嘘だ。それでも神ジュナよりいくらか上等な神なのだろうか。神の不在を知らず、無知のまま「祈り」、しかしそれは確かに生きることである人々の中で、ただ一人だけが明確に嘘へと「祈り」続けるとすれば、われわれの行いは終わりゆく世界における唯一の例外に対してあまりに非道だとは言えないだろうか。
現実においてただ「祈る」中で、その合間夢の中で、大切なものに出会うためには、急ごしらえの嘘の神は必要ない。



というわけで、僕は最後のマシュの件は多分に問題含み(善悪とかではなく)だと思うのだけど、そういう行動、コヤンと同じような所業を我慢できずしてしまう、というマシュのエゴが垣間見える点でとても意義があったと思ってる。今回ペペさん経由で、強くマシュの人間味が強調された。オフェリアと恋バナした、なんてペペさんと盛り上がるマシュ。その背景にはぐだとのこれまでの物語があるわけだ。さて、基本的にマシュはぐだのサーヴァントであって、色々なことに直面するぐだについて、「先輩はそういう人です」と付いてきてくれる存在。ただ今回のアーシャちゃんの件はぐだ以上にマシュが主導している。ぐだはその行為の是非、意味について確信を持ち切れてはいない。マシュの人間味を強調した剪定インドのラストに、我慢できず主導的に行動してしまうマシュのエゴが改めて強調されるというの、それなりに意義のあることだよな、と思う。

あと、ホームズの21世紀が一番地獄発言については、また今度書く。


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