mhwib
笛界隈盛り上がってんな(悪い意味)
香ばしいなあと思ってた投稿者が案の定香ばしくなっていたらしい。
quaさんの動画またみたい。
ああいう分析的な狩りのアプローチが面白いと思って笛始めたから、
quaさんがやめてしまった時点でモチベが消失してしまった
例の件については肯定も否定しないけど、僕はただquaさんの動画見たいし
rta走って欲しい
笛界隈盛り上がってんな(悪い意味)
香ばしいなあと思ってた投稿者が案の定香ばしくなっていたらしい。
quaさんの動画またみたい。
ああいう分析的な狩りのアプローチが面白いと思って笛始めたから、
quaさんがやめてしまった時点でモチベが消失してしまった
例の件については肯定も否定しないけど、僕はただquaさんの動画見たいし
rta走って欲しい
あらゆる困難が然るべきタイミングでさらっと解決するご都合主義感。
まあいいとして
これは実は経血を表わしていて云々
ひえぇぇぇ!!
みたいなツイッター上の反応をみるとげんなりするよね
知性とは何なのか、教育とは何なのか
まあいいとして
これは実は経血を表わしていて云々
ひえぇぇぇ!!
みたいなツイッター上の反応をみるとげんなりするよね
知性とは何なのか、教育とは何なのか
常にベストポジから右ぶんと後方みたいな戦い方をするためには、必然的にオトモが邪魔になってくるんだけど、あれオトモ自体が邪魔しているというより、モンスターのタゲがオトモに向きすぎるのが問題なのかなっていう。
オトモのタゲ吸引力というか、モンスターの優先順の問題というか、どっちなのか分からないけど、ともかく別にオトモが遠くに行っちゃう程度ならどうでもよくて、モンスターがいちいちそっちに引っ張られていくのが困るんだよな。
あれガンナーとかだと嬉しかったりするのかな。
オトモのタゲ吸引力というか、モンスターの優先順の問題というか、どっちなのか分からないけど、ともかく別にオトモが遠くに行っちゃう程度ならどうでもよくて、モンスターがいちいちそっちに引っ張られていくのが困るんだよな。
あれガンナーとかだと嬉しかったりするのかな。
思いのほかバイオコラボクエストが面白かった(?)のでモンハンのモチベが少し回復した。そもそもハザクはWで一番好きなモンスターだったので、基本的に戦えるとテンション上がる。
しかしゾンビ化中、抜刀時だとヨタヨタ歩きにならないのがなんというか、絵的にかなり笑える。なんで狩猟笛担いだ瞬間俊敏になるんだよ。
笛は抜刀時の歩きがIBから早くなったのでゾンビ化のデメリットよりハザクの瘴気ダメージが少ないメリットの方が大きい。とはいえ演奏をローリングで早めに終えられないのでひたすら右ぶん&スタンプ。いつもの狩猟笛だ。
ということであんまりデメリットはない。突進だけやめてくれれば割と快適。
しかしゾンビ化中、抜刀時だとヨタヨタ歩きにならないのがなんというか、絵的にかなり笑える。なんで狩猟笛担いだ瞬間俊敏になるんだよ。
笛は抜刀時の歩きがIBから早くなったのでゾンビ化のデメリットよりハザクの瘴気ダメージが少ないメリットの方が大きい。とはいえ演奏をローリングで早めに終えられないのでひたすら右ぶん&スタンプ。いつもの狩猟笛だ。
ということであんまりデメリットはない。突進だけやめてくれれば割と快適。
無限に時間があるわけではないので
2019年11月5日 日常そういう中でどうゲームと付き合うかという話
MHWIB要求レベルが高すぎないかという。
特に装飾品関連で、Wの時は別に攻撃珠なくても弱特超心そこそこの見切りで十分に火力装備が作れたけど、IBは弱特+体力みたいなやつがないとある程度十分な装備に届かな過ぎる。スロット面優秀な防具が少なすぎませんかという。
TA勢がEXカイザーじゃなくカイザーγ使ってるのも分かる。スロットが微妙でいまいち体力と火力を両立できない。IBのアホ体力でアホ火力なモンスター相手に、そこそこの時間、基本無被弾前提の体力で戦うの本当にしんどい。もっと上手くなるか、ましな装飾品掘るか。まあ掘ってる間に上手くなればいいんだけど、正直そんな暇はないぞ。という。
悪態付きながらモンハンするのもそろそろ不快になってきたので、またBOWとか、それかMoonでもsekiroでも、やりたいんだけど、なんか悔しくてずっとIBやってる。根本的に既にあんまり楽しくはない。歴戦王もどうせクソ嫌がらせクソ理不尽の塊だと思うとさらにやる気でない。
いやIBのモンスター、みんなでワイワイやる分にはおもろいのかも分からんけど、ソロだとひたすら動き頭に入れて、理不尽に耐えて、2発かすると気絶するのに苛立って、ゴミクラッチにキレての繰り返しで、このゲーム何が楽しいのか全く分からなくなってくる。
BOWとか、膨大なボリュームで未だにコンプリートなんて大分先の話で、でも日々のプレイがつまらなくなることなんて少しもなくて、ああ面白いゲームってこういうことだなって思った。SEKIROもそう。新しいアクション、敵、高難易度、どれもキツくても楽しくて、得るもののある時間を過ごした。ブラボも新データ何個も作って色んなビルドで聖杯最後まで攻略するのも楽しかった。いいゲームって、ゴールする前からずっと楽しいんだよなあ。そういうゲームに時間使いたいよな。ってことで既にモンハン熱がほぼほぼ消えてる。
モンハンってゲーム、ゴールしても楽しくないんだよな
MHWIB要求レベルが高すぎないかという。
特に装飾品関連で、Wの時は別に攻撃珠なくても弱特超心そこそこの見切りで十分に火力装備が作れたけど、IBは弱特+体力みたいなやつがないとある程度十分な装備に届かな過ぎる。スロット面優秀な防具が少なすぎませんかという。
TA勢がEXカイザーじゃなくカイザーγ使ってるのも分かる。スロットが微妙でいまいち体力と火力を両立できない。IBのアホ体力でアホ火力なモンスター相手に、そこそこの時間、基本無被弾前提の体力で戦うの本当にしんどい。もっと上手くなるか、ましな装飾品掘るか。まあ掘ってる間に上手くなればいいんだけど、正直そんな暇はないぞ。という。
悪態付きながらモンハンするのもそろそろ不快になってきたので、またBOWとか、それかMoonでもsekiroでも、やりたいんだけど、なんか悔しくてずっとIBやってる。根本的に既にあんまり楽しくはない。歴戦王もどうせクソ嫌がらせクソ理不尽の塊だと思うとさらにやる気でない。
いやIBのモンスター、みんなでワイワイやる分にはおもろいのかも分からんけど、ソロだとひたすら動き頭に入れて、理不尽に耐えて、2発かすると気絶するのに苛立って、ゴミクラッチにキレての繰り返しで、このゲーム何が楽しいのか全く分からなくなってくる。
BOWとか、膨大なボリュームで未だにコンプリートなんて大分先の話で、でも日々のプレイがつまらなくなることなんて少しもなくて、ああ面白いゲームってこういうことだなって思った。SEKIROもそう。新しいアクション、敵、高難易度、どれもキツくても楽しくて、得るもののある時間を過ごした。ブラボも新データ何個も作って色んなビルドで聖杯最後まで攻略するのも楽しかった。いいゲームって、ゴールする前からずっと楽しいんだよなあ。そういうゲームに時間使いたいよな。ってことで既にモンハン熱がほぼほぼ消えてる。
モンハンってゲーム、ゴールしても楽しくないんだよな
旋律を覚えるってなに?
2019年11月3日 日常旋律を覚える、
というのはどういう事態を指しているのか?
笛毎に旋律が違うといっても、実際には3色の組み合わせでパターン化されていて、よく使うのは赤緑、赤空、赤橙の3パターンくらい。
スラアクのビンの種類より少ない。この色のパターンも隠しステータスとかじゃなく武器の表示をみれば書いてあるわけで、覚える必要なんかない。
となると例えば紫赤緑紫で攻撃大、みたいな各旋律を頭に入れておくことを覚えると言ってるのだろうか。確かに多くの笛使いはよく使う旋律については覚えているかもしれない。だが、それは結果として身体に染み付いているだけで、必死に覚えようとして覚えた人なんていないのでは。
そもそも右上みれば各旋律の楽譜が常に表示されているので、演奏する時にはそれを見ながら演奏すればいい。暗記の必要なんてない。
戦闘中に旋律を揃える、みたいなのはとってもうまい人にはできるだろうけど、「覚えられない・・・」みたいな人にはそも無理。敵のダウン中、エリア移動時とかに右上見ながら集めて演奏すればいい。それに、戦闘中に立ち回りを歪めずに揃えられる旋律なんて赤橙の全延長旋律くらいだから(赤橙が初心者オススメなのはこういうところ)。
ということで基本的に、旋律を覚える、必要はないのだけど。
よく言われる覚えるのが無理~みたいなのって単純に狩猟笛のことを知らないだけでは、と思う。僕もガンランスの放射とか拡散とかなんなの~わかんない~って思うけど、単純によく知らないだけだ。(MHP3rdではAGガンスが基本装備だったけど、ブランクあるしもう色々忘れた。)
というのはどういう事態を指しているのか?
笛毎に旋律が違うといっても、実際には3色の組み合わせでパターン化されていて、よく使うのは赤緑、赤空、赤橙の3パターンくらい。
スラアクのビンの種類より少ない。この色のパターンも隠しステータスとかじゃなく武器の表示をみれば書いてあるわけで、覚える必要なんかない。
となると例えば紫赤緑紫で攻撃大、みたいな各旋律を頭に入れておくことを覚えると言ってるのだろうか。確かに多くの笛使いはよく使う旋律については覚えているかもしれない。だが、それは結果として身体に染み付いているだけで、必死に覚えようとして覚えた人なんていないのでは。
そもそも右上みれば各旋律の楽譜が常に表示されているので、演奏する時にはそれを見ながら演奏すればいい。暗記の必要なんてない。
戦闘中に旋律を揃える、みたいなのはとってもうまい人にはできるだろうけど、「覚えられない・・・」みたいな人にはそも無理。敵のダウン中、エリア移動時とかに右上見ながら集めて演奏すればいい。それに、戦闘中に立ち回りを歪めずに揃えられる旋律なんて赤橙の全延長旋律くらいだから(赤橙が初心者オススメなのはこういうところ)。
ということで基本的に、旋律を覚える、必要はないのだけど。
よく言われる覚えるのが無理~みたいなのって単純に狩猟笛のことを知らないだけでは、と思う。僕もガンランスの放射とか拡散とかなんなの~わかんない~って思うけど、単純によく知らないだけだ。(MHP3rdではAGガンスが基本装備だったけど、ブランクあるしもう色々忘れた。)
パラドーラの下位互換で狩りした感想
2019年10月31日 日常達人芸じゃなくてパラドーラでもない笛装備
ということで
虎笛
ラ
レックスロア
テオ
ブラン
ガルルガ
なんというか、ちゃんと装備を揃えないプレイヤーってこんな感じかなあという想像で組んだ装備。
耳栓やら体力やら積んで、見切り、弱特、攻撃盛る感じ。
まあ見事に達人芸パラの下位互換。
匠積まないと虎笛もふっつうに青ゲージまで落ちるのでさらに弱い。
ということで虎ちゃんはめでたく解雇!さらば。空旋律の回避性能も正直練習にならんのであんまり積みたくないし。そも僕はパラの白ゲージ許容する人なので同じ白ゲージ主体で考えるならそら虎よりパラのが強いのは当たり前。
初心者にオススメできるパラドーラ以外の何か、という概念、幻想では。
また探してみよう。
※炎妃オススメ勢よく見かけるけど、Wなら分かるんだけどIBで初心者に炎妃はわりと謎。IBでナナ素材揃ってる人ならパラ使った方が早いし、パラまともに使えない初心者はそもそも炎妃強化できないと思う。
パラおすすめってのは、ある程度上達するまでを視野に言ってる人が多い印象。ナナまで行けるならパラで上達できるでしょ。初笛の狩りがサクサク快適、みたいなイメージで初心者にオススメ云々言ってるなら、そんな笛ねえよってなっちゃうのでは。そも笛はサクサク快適武器ではないので。
いやというか、本当の初心者が笛デビューするなら、まじめにWのクエストを一通りやった方がいい。パラじゃなくてWの炎妃でWの古龍とか危険度2辺りの歴戦を一通りやるのが一番いい。IBで笛デビューするべきではない。そも。
ということで
虎笛
ラ
レックスロア
テオ
ブラン
ガルルガ
なんというか、ちゃんと装備を揃えないプレイヤーってこんな感じかなあという想像で組んだ装備。
耳栓やら体力やら積んで、見切り、弱特、攻撃盛る感じ。
まあ見事に達人芸パラの下位互換。
匠積まないと虎笛もふっつうに青ゲージまで落ちるのでさらに弱い。
ということで虎ちゃんはめでたく解雇!さらば。空旋律の回避性能も正直練習にならんのであんまり積みたくないし。そも僕はパラの白ゲージ許容する人なので同じ白ゲージ主体で考えるならそら虎よりパラのが強いのは当たり前。
初心者にオススメできるパラドーラ以外の何か、という概念、幻想では。
また探してみよう。
※炎妃オススメ勢よく見かけるけど、Wなら分かるんだけどIBで初心者に炎妃はわりと謎。IBでナナ素材揃ってる人ならパラ使った方が早いし、パラまともに使えない初心者はそもそも炎妃強化できないと思う。
パラおすすめってのは、ある程度上達するまでを視野に言ってる人が多い印象。ナナまで行けるならパラで上達できるでしょ。初笛の狩りがサクサク快適、みたいなイメージで初心者にオススメ云々言ってるなら、そんな笛ねえよってなっちゃうのでは。そも笛はサクサク快適武器ではないので。
いやというか、本当の初心者が笛デビューするなら、まじめにWのクエストを一通りやった方がいい。パラじゃなくてWの炎妃でWの古龍とか危険度2辺りの歴戦を一通りやるのが一番いい。IBで笛デビューするべきではない。そも。
狩猟笛をオススメする場合のはなし
2019年10月30日 日常笛関連のリストを見てて流れてきた話
初心者にオススメの笛としてパラドーラを進めるべきかというテーマ
①別武器で導きの地まではクリアしてると想定した場合
結論:パラドーラを進める
別武器をある程度マスターしている人の場合、まず攻撃旋律のない笛は火力が少なすぎるので萎えてしまうと思う。その上で攻撃旋律がある笛だと多くがあまり切れ味面で優秀とは言えない。なので結局達人芸装備が一番ストレスないよね、という話になる(青だともう戦えない、という前提で話してます)。達人芸装備にする場合、赤緑系の体力関連の旋律がほぼ腐るので結局攻撃旋律持ちで一番旋律の管理が簡単なパラドーラがオススメになる。全旋律延長の有無は本当に大きい。旋律を維持する、という実のところかなりの無理難題に対応できるのは、現状赤橙のみだと言える。たくさん旋律を吹いてなんとなくいっぱい効果付くのが楽しい、みたいな楽しみ方でいいなら別だけど、ちゃんと狩猟笛で狩りしてみたいということであればパラドーラ一択。
②IBを笛でデビューする人
結論:オススメしない。
もしする場合、マッドボーン、ガマルホルン、イブレスの3本でカーナまで頑張れると思う。それ以後はカーナ笛がちゃんとつよい。パラドーラは達人芸装備(EXテオ3つ※厳密にはEXでなくても達人芸は発動するけど、TA勢でもなければ基本EX3つが鉄板。)じゃない&匠2以上盛れないなら使えないので、ボーン&隻眼で火力確保したり、ブランで耳栓盛るとかして好みの装備を整えればいい。超会心はいいので弱特だけはちゃんと積めば楽しめると思う。ただとにかくオススメはしない。毎クエスト25分は覚悟する必要がある。
②についてもこれは「攻略」という観点から言ってるのであって、一通りクリアして素材も整っている人にガマルホルンやイブレス(個人的には好き)の作成を勧めるかは微妙。この武器好きなら色々作ればいいし、それぞれの武器に合わせた装備とか、敵に合わせた最高の一本とか、そういう楽しみ方ができると思うけど、もう他武器を知ってる人で初めてこの武器触ります、何すればいいですか?みたいな場合にヘタに鉱石笛とかゾンビ装備とか触らせて、結局時間はかかるし「旋律維持が大変」みたいなしょうもない感想だけ持ち帰られるくらいなら、達人芸パラドーラをさわらせるのが一番丸いと思う。
例えばゾンビ装備を初心者に「リジェネすげえ!」みたいに紹介しても、実際の初心者さんが①自己強化②攻撃up③回復速度④リジェネを全部維持するんですか?めんどくせえ!ってなるのが目に見えてるんだよね。エリア移動のたびに旋律表全部真っ白になるのでその都度旋律4つかけ直す武器です!なんて紹介するべきなのか僕は分からない。
達人芸パラなら①自己強化②攻撃upの2つを延長旋律だけ集めて吹き続けてもらえば十分狩りが成立するので、維持が云々みたいなストレスも感じないし、最低限他武器に見劣りしないスピードで狩れる。
あと、狩猟笛を上手くなるっていうのは、「沢山旋律を吹いて切らさず維持すること」ではなくて、「右ぶんとスタンプ(上達してきたら後方)が確定で入るタイミングをモンスター毎に覚えること」だと個人的には思っている。この点パラは右ぶんとスタンプないし後方を入れてけば自然に延長旋律が揃うので、狩猟笛の上手い戦い方を練習しつつ旋律維持ができるので合理的。
例えばゾンビ装備の場合、ばくえんこで旋律4つを維持するために連音や柄攻撃、さらには響音まで使って旋律を集めて維持するというのは初心者にはほぼ無理だし、その動き自体があんまり強くない。つまり覚えるべき動きではない動きを、初心者が求められるというなんとも不合理な話になってしまう。「狩猟笛を使うために、狩猟笛としては強くない動きを覚えてね!」という。結局狩猟笛で強い動きをすると赤緑の攻撃旋律や、まして回復速度なんて揃わない。響音なら打集めた方がいいので結局いわゆるゾンビ装備の売りを活かす戦い方にならず、やっぱりパラでいいじゃんとなる。
僕もWでチャアク使ってた時は、ブロスばっかでつまんねえな、とか思ってたので、無属性火力特化系の武器以外を使いたい勧めたいってなるのは分かる。
ただ笛の場合、旋律を揃えるための動き自体が強いかどうか、という問題がある点で、武器間の格差がどうしようもないことになる。パラなら開幕攻撃自己強化、から右ぶん後方でダメージ稼ぎつつ延長旋律を集める/ダウン時は響音連打で打を集める、という動きが単純で強くて合理的。連音やら、スタンプ⇒後方みたいな使いどころの限定的な動きで攻撃upや回復速度を集めるのは初心者には無理。上手い人にもかなり難しいのでは。僕は上手い人ではないし無理。(柄でいいじゃん、となるかもしれないが、じゃあ柄攻撃は強いですか?という話)
ずらずら書いたけど笛の練習にはパラ一択やろという話でした。
達人芸もゾンビも集める気ないです。とりあえず担いでみたいだけ、みたいな話ならもはやなんでもいい。多少見切りとか積めるならティガ笛とか切れ味まともでいいかも?
※ほぼソロ専なのでサポート笛みたいな概念はそもそも分かりません。
初心者にオススメの笛としてパラドーラを進めるべきかというテーマ
①別武器で導きの地まではクリアしてると想定した場合
結論:パラドーラを進める
別武器をある程度マスターしている人の場合、まず攻撃旋律のない笛は火力が少なすぎるので萎えてしまうと思う。その上で攻撃旋律がある笛だと多くがあまり切れ味面で優秀とは言えない。なので結局達人芸装備が一番ストレスないよね、という話になる(青だともう戦えない、という前提で話してます)。達人芸装備にする場合、赤緑系の体力関連の旋律がほぼ腐るので結局攻撃旋律持ちで一番旋律の管理が簡単なパラドーラがオススメになる。全旋律延長の有無は本当に大きい。旋律を維持する、という実のところかなりの無理難題に対応できるのは、現状赤橙のみだと言える。たくさん旋律を吹いてなんとなくいっぱい効果付くのが楽しい、みたいな楽しみ方でいいなら別だけど、ちゃんと狩猟笛で狩りしてみたいということであればパラドーラ一択。
②IBを笛でデビューする人
結論:オススメしない。
もしする場合、マッドボーン、ガマルホルン、イブレスの3本でカーナまで頑張れると思う。それ以後はカーナ笛がちゃんとつよい。パラドーラは達人芸装備(EXテオ3つ※厳密にはEXでなくても達人芸は発動するけど、TA勢でもなければ基本EX3つが鉄板。)じゃない&匠2以上盛れないなら使えないので、ボーン&隻眼で火力確保したり、ブランで耳栓盛るとかして好みの装備を整えればいい。超会心はいいので弱特だけはちゃんと積めば楽しめると思う。ただとにかくオススメはしない。毎クエスト25分は覚悟する必要がある。
②についてもこれは「攻略」という観点から言ってるのであって、一通りクリアして素材も整っている人にガマルホルンやイブレス(個人的には好き)の作成を勧めるかは微妙。この武器好きなら色々作ればいいし、それぞれの武器に合わせた装備とか、敵に合わせた最高の一本とか、そういう楽しみ方ができると思うけど、もう他武器を知ってる人で初めてこの武器触ります、何すればいいですか?みたいな場合にヘタに鉱石笛とかゾンビ装備とか触らせて、結局時間はかかるし「旋律維持が大変」みたいなしょうもない感想だけ持ち帰られるくらいなら、達人芸パラドーラをさわらせるのが一番丸いと思う。
例えばゾンビ装備を初心者に「リジェネすげえ!」みたいに紹介しても、実際の初心者さんが①自己強化②攻撃up③回復速度④リジェネを全部維持するんですか?めんどくせえ!ってなるのが目に見えてるんだよね。エリア移動のたびに旋律表全部真っ白になるのでその都度旋律4つかけ直す武器です!なんて紹介するべきなのか僕は分からない。
達人芸パラなら①自己強化②攻撃upの2つを延長旋律だけ集めて吹き続けてもらえば十分狩りが成立するので、維持が云々みたいなストレスも感じないし、最低限他武器に見劣りしないスピードで狩れる。
あと、狩猟笛を上手くなるっていうのは、「沢山旋律を吹いて切らさず維持すること」ではなくて、「右ぶんとスタンプ(上達してきたら後方)が確定で入るタイミングをモンスター毎に覚えること」だと個人的には思っている。この点パラは右ぶんとスタンプないし後方を入れてけば自然に延長旋律が揃うので、狩猟笛の上手い戦い方を練習しつつ旋律維持ができるので合理的。
例えばゾンビ装備の場合、ばくえんこで旋律4つを維持するために連音や柄攻撃、さらには響音まで使って旋律を集めて維持するというのは初心者にはほぼ無理だし、その動き自体があんまり強くない。つまり覚えるべき動きではない動きを、初心者が求められるというなんとも不合理な話になってしまう。「狩猟笛を使うために、狩猟笛としては強くない動きを覚えてね!」という。結局狩猟笛で強い動きをすると赤緑の攻撃旋律や、まして回復速度なんて揃わない。響音なら打集めた方がいいので結局いわゆるゾンビ装備の売りを活かす戦い方にならず、やっぱりパラでいいじゃんとなる。
僕もWでチャアク使ってた時は、ブロスばっかでつまんねえな、とか思ってたので、無属性火力特化系の武器以外を使いたい勧めたいってなるのは分かる。
ただ笛の場合、旋律を揃えるための動き自体が強いかどうか、という問題がある点で、武器間の格差がどうしようもないことになる。パラなら開幕攻撃自己強化、から右ぶん後方でダメージ稼ぎつつ延長旋律を集める/ダウン時は響音連打で打を集める、という動きが単純で強くて合理的。連音やら、スタンプ⇒後方みたいな使いどころの限定的な動きで攻撃upや回復速度を集めるのは初心者には無理。上手い人にもかなり難しいのでは。僕は上手い人ではないし無理。(柄でいいじゃん、となるかもしれないが、じゃあ柄攻撃は強いですか?という話)
ずらずら書いたけど笛の練習にはパラ一択やろという話でした。
達人芸もゾンビも集める気ないです。とりあえず担いでみたいだけ、みたいな話ならもはやなんでもいい。多少見切りとか積めるならティガ笛とか切れ味まともでいいかも?
※ほぼソロ専なのでサポート笛みたいな概念はそもそも分かりません。
遊戯王をやりたい
シャドール強化らしいので、久々に遊戯王をやりたい。
と思いつつ、手持ちのカード見ると日本語書かれてるのが
ダサく感じるようになってしまった
彼岸辺りは真面目に英語版で揃えたい気がする
いやただね、今見ると、本当に字が小さい
シャドール強化らしいので、久々に遊戯王をやりたい。
と思いつつ、手持ちのカード見ると日本語書かれてるのが
ダサく感じるようになってしまった
彼岸辺りは真面目に英語版で揃えたい気がする
いやただね、今見ると、本当に字が小さい
アイスボーンのウラガンキンのはなし
2019年10月22日 日常アイスボーンのウラガンキン、ストーリー上狩る必要もなく最近まで導きも溶岩地帯がなかったため、あまり知られていないかもしれないけれど、なかなか性格の悪い調整が為されている。
隙大きめの顎スタンプはこれまで相手ターン中に一発差し込めるチャンスとして認識されていたように思うのだが、マスターランクではウラガンキンの顎に隠れる形で爆弾が設置されるようになっている。見えないで殴る、爆発、死という流れを想定しての配置だと思われる。
ことさらにこのウラガンキンについて言及したいのは、この調整がウラガンキンというモンスターの生態というよりも、開発対プレイヤーの構図を表わすものとなってしまっている気がするからだ。
まず、ウラガンキンというモンスターはことさらにハンターに対して絡め手、騙し討ちなどを狙うモンスターではない。回転時の爆弾のばら撒き方からして、意識的に狙って設置するというよりは野放図にまき散らしているという表現が適切だろう。そのようなモンスターが、「自身の顎に隠れる形で爆弾を設置し、ハンターを引き寄せて騙し討ちする」という戦法をとるだろうか。個人的にはあんまりそんな気がしない。
モンスターの行動がモンスターの生態を表わしているのではないとすれば、その背後にそのモンスターを調整した開発側スタッフの存在を想定してしまうのは仕方ないことだろう。特にこれまで隙として機能していた技が、疑似餌になっているとすれば尚更だ。私はウラガンキンに関するこの調整は、ウラガンキンというモンスターがマスターランクで強くなった結果というよりも、ウラガンキンを調整した開発スタッフがプレイヤーの裏をかくことを意図した結果のように思えてしまう。
私たちはモンスターと戦っている。決して開発と戦っているわけではない。ウラガンキンというモンスターが、ウラガンキンの生態、特性を十全に発揮して挑んでくるからこそ狩りが面白く感じる。ウラガンキンと戦っているという感覚を得られる。だがアイスボーンのウラガンキンに関して言えば、私はウラガンキンを通して開発と戦っているような印象を拭い去れなかった。隙のある大技を、無理やり強化してプレイヤーの裏をかく、そんな意図を持った開発側と。
私はにわかハンターなので、いやいやウラガンキンって結構狡猾な技使うやつだよね、みたいな話ならそうですかなるほど、って感じなのだけど、なんかね。いうも狩猟笛でスタンプ入るわ~って思ってた隙の裏に爆弾設置されてるの見て、???ってなったという話。
(あとなんか回りながら燃えてるようね。あれはかっこいい。)
隙大きめの顎スタンプはこれまで相手ターン中に一発差し込めるチャンスとして認識されていたように思うのだが、マスターランクではウラガンキンの顎に隠れる形で爆弾が設置されるようになっている。見えないで殴る、爆発、死という流れを想定しての配置だと思われる。
ことさらにこのウラガンキンについて言及したいのは、この調整がウラガンキンというモンスターの生態というよりも、開発対プレイヤーの構図を表わすものとなってしまっている気がするからだ。
まず、ウラガンキンというモンスターはことさらにハンターに対して絡め手、騙し討ちなどを狙うモンスターではない。回転時の爆弾のばら撒き方からして、意識的に狙って設置するというよりは野放図にまき散らしているという表現が適切だろう。そのようなモンスターが、「自身の顎に隠れる形で爆弾を設置し、ハンターを引き寄せて騙し討ちする」という戦法をとるだろうか。個人的にはあんまりそんな気がしない。
モンスターの行動がモンスターの生態を表わしているのではないとすれば、その背後にそのモンスターを調整した開発側スタッフの存在を想定してしまうのは仕方ないことだろう。特にこれまで隙として機能していた技が、疑似餌になっているとすれば尚更だ。私はウラガンキンに関するこの調整は、ウラガンキンというモンスターがマスターランクで強くなった結果というよりも、ウラガンキンを調整した開発スタッフがプレイヤーの裏をかくことを意図した結果のように思えてしまう。
私たちはモンスターと戦っている。決して開発と戦っているわけではない。ウラガンキンというモンスターが、ウラガンキンの生態、特性を十全に発揮して挑んでくるからこそ狩りが面白く感じる。ウラガンキンと戦っているという感覚を得られる。だがアイスボーンのウラガンキンに関して言えば、私はウラガンキンを通して開発と戦っているような印象を拭い去れなかった。隙のある大技を、無理やり強化してプレイヤーの裏をかく、そんな意図を持った開発側と。
私はにわかハンターなので、いやいやウラガンキンって結構狡猾な技使うやつだよね、みたいな話ならそうですかなるほど、って感じなのだけど、なんかね。いうも狩猟笛でスタンプ入るわ~って思ってた隙の裏に爆弾設置されてるの見て、???ってなったという話。
(あとなんか回りながら燃えてるようね。あれはかっこいい。)
アリーナで勝ち確側からのgood gameって、
はよコンシードしろよっていう意味でいいのかな。
そこそこ煽り性能な気がするけどナチュラルにわりとやられる印象。
というか対面だとむしろ負け確なのにゲームを続けること(相手にとどめささせる程度)が失礼、みたいな空気をちょいちょい感じるような気がする。
例えばシャドバのレジェンダリー・ファイター、マリオネット・トレや遊戯王のウィジャ盤とかディザスター・レオみたいな、勝ち確が相手にも分かるタイプのコンボカードの場合、使用者側はそれでも最後までやり切りたい人が多い印象なんだけど、マジックだとデプス相手に最後まで殴らせると「こいつなんで投了しねえんだよ」みたいな空気を感じる。みたいな。印象だけの話だけど。
まあ僕も直観からエムラエムラエムラ選んだ段階で投了してくれれば、サイド後にエムラ2枚ならんだデッキを多少バラけてくれるようにシャッフルする手間が省けるので嬉しくはあるけれども。
そんなことより、願い爪のタリスマン入れて久々の青黒オムニにしたいな、とか考えてる。スネア腐らせるのはオムニの強味ではあるので、あんまり自分から2マナ域を採用したくはないのだけれども。同じ理由で光網もあまり好まない。帳とケラトプスの使用感は完全にjpaさんの英語記事のエウレカに関する記述にある通りって感じ。
はよコンシードしろよっていう意味でいいのかな。
そこそこ煽り性能な気がするけどナチュラルにわりとやられる印象。
というか対面だとむしろ負け確なのにゲームを続けること(相手にとどめささせる程度)が失礼、みたいな空気をちょいちょい感じるような気がする。
例えばシャドバのレジェンダリー・ファイター、マリオネット・トレや遊戯王のウィジャ盤とかディザスター・レオみたいな、勝ち確が相手にも分かるタイプのコンボカードの場合、使用者側はそれでも最後までやり切りたい人が多い印象なんだけど、マジックだとデプス相手に最後まで殴らせると「こいつなんで投了しねえんだよ」みたいな空気を感じる。みたいな。印象だけの話だけど。
まあ僕も直観からエムラエムラエムラ選んだ段階で投了してくれれば、サイド後にエムラ2枚ならんだデッキを多少バラけてくれるようにシャッフルする手間が省けるので嬉しくはあるけれども。
そんなことより、願い爪のタリスマン入れて久々の青黒オムニにしたいな、とか考えてる。スネア腐らせるのはオムニの強味ではあるので、あんまり自分から2マナ域を採用したくはないのだけれども。同じ理由で光網もあまり好まない。帳とケラトプスの使用感は完全にjpaさんの英語記事のエウレカに関する記述にある通りって感じ。
夏イベ。コルデーさんがコンシェルジュで噛むくだり、謎すぎる。
なぜフランス人がコンシェルジュで噛むの?
宝具の冠詞といい、もしかしてコルデーさんフランス語できない系の逸話とか残ってるの?僕が知らないだけ?なんか謎すぎるのだけど。
なぜフランス人がコンシェルジュで噛むの?
宝具の冠詞といい、もしかしてコルデーさんフランス語できない系の逸話とか残ってるの?僕が知らないだけ?なんか謎すぎるのだけど。
コルデーさんそこそこ楽しみだったんだけど、
声も申し分ないんだけど、
宝具名、名詞の性くらい今更間違えないで欲しいよね。
ちょっと調べればわかる話じゃないですか。
声も申し分ないんだけど、
宝具名、名詞の性くらい今更間違えないで欲しいよね。
ちょっと調べればわかる話じゃないですか。
13日のリスト載ったんだけど、黒赤タッチなので
Grixis Tellってことでグリテルってデッキ名書いたのに
グリデルって修正されちゃって悲しい。
Grixis Tellってことでグリテルってデッキ名書いたのに
グリデルって修正されちゃって悲しい。
メモ。客観的記述、解釈、主観的判断推論の混合
2部全体に対する自分の所感も併せて
ねたばれあり
①何と闘っていたのか。何が争点だったのか
・間違った輪廻
剪定インドの輪廻は間違った輪廻だった。この輪廻はおかしい、という最低限の直観が大義名分となり、カルデアは任務を遂行していく。
※剪定インドの輪廻が間違っていること、はカルデアが剪定インドを切除する直接の理由ではない。カルデアは剪定インドの輪廻が編纂インドのそれよりも優れていたとして、尚剪定インドを切除しなければならない。(そもそも果たして編纂事象の観点から、剪定事象の事柄に対して価値付けを行うことが可能なのか?という点は保留。編纂側からは剪定事象のどのような事柄も「間違っている」としか思えないのではないか。という想定は十分に可能ではある。)
これまでと同様、幸いにもカルデア(地獄を自称する21世紀の人たち)にとって間違っていると思われる世界を、正していくお話。カルデアの任務とは単に剪定事象を切除することだが、それを「間違った輪廻を止める」という大義でカモフラージュして物語は進行する。これ以上皮肉を込めてカルデアの任務の二重性に言及しても仕方ないので、後者の大義名分の方を掘り下げてみる。
・間違っているとは?
剪定インドの輪廻は、「不出来なものが排除される」輪廻。巡るたびに「不出来」と認定されたものが排除されていく。さて、この輪廻の何が、問題とされたのか。
その1:「不出来なものが排除されること」そのもの
輪廻において「不出来なものが排除されること」、自体がまず問われる。「不出来だからといって排除するのか!?」という批判は物語上出てきたが、もう少しその違和感の内実を問いたい。
というのも神話的倫理観において一般に(われわれプレイヤーがカルデアと同じ視点を持つと(少なくとも物語上は)想定するならば、編纂事象とはわれわれが生きるこの経験世界に他ならない(この点はホームズの21世紀は地獄発言などを鑑みても、fgoの編纂事象が現代のわれわれにとっての一般的な経験世界を想定していると考えることは不自然ではない。そもそもfgo第1部ラストのレイドバトルは、われわれの生きる世界と連動して2016年末に、2017年の存亡をかけた戦いとして演出されていた))浄化はスタンダードな思想であり、「排除」即「間違い」ではない。魂の浄化、というのは輪廻思想の基本的価値観である。「排除」がそれ自体端的に「間違っている」わけではないことは、例えばアスクレピオスの件に顕著であり、ようは程度の問題なのだ(毒と薬の境界は度合い(過ぎれば・・・)の問題である)。つまり、「不出来」「排除」という判断の程度、ないし規準が問題となっている。
その2:誰にとって「不出来」なのか
物語上、様々なキャラクターが「不出来」を担ったが、その判定基準は一様ではない。狂ナタ:自分と相容れない存在が同居する自身の様態が「不出来」。この判断基準は多分にナタ本人に委ねられている。テル:彼の場合、彼自身と神ジュナという2つの規準が存在する。神ジュナにとっては子供のについての記憶が「不出来」であり、対して彼自身にとってはその記憶の欠如こそが「不出来」である。テルの件では神ジュナの規準とテル(そして編纂事象側)の規準の対立が明確になる。アスクレピオス:彼の場合、神ジュナは無関心だが彼自身の暴走した価値観が剪定インド輪廻の排除の規準を対応しているかに(一見すると)描かれている。ここでは個別トピックが問題となるというより、その程度が問題となっていた。等々
まあともかく物語上、「不出来」規準が様々あったわけ。特に分かりやすいのはテルの件で、カルデア側にもテル自身にも、少なくともテルが子供について忘れているのは「間違っている」という共通の直観がある。ここで、子供についての記憶を「不出来」とみなした神ジュナが、問われることになる。つまり、神ジュナの「不出来」規準は直観に反する、ということ。一個人の決定が多角的に見て問題含みなのは当然のことで、剪定インドではまさに一個人の決定が「排除」の規準となっている点で、カルデア側(プレイヤー側)はそれを「間違っている」と断じることができる。となるとこの観点からみれば、われわれが剪定インドでやったことというのは、要するに独裁制に対する政治的な抵抗だった。(後述の通り剪定インドは一貫して神と世界の話で、これまでのように国、民といった枠組みがないが、プレイヤーの攻略は民族反乱を組織する、という政治的アプローチ。)
その3:「排除」の意味
剪定インドにおける排除ってなんでしたっけ。
剪定インドの輪廻は一周したタイミングでデータを抽出して、手を加えてロードし直すというもの。新たな輪廻上に残された各々の存在は、神ジュナによる再構成を経た存在だ。この諸々の存在の再構成の過程で、神ジュナによって「手が加えられること」が「排除」であった。この「排除」の痕跡が、再構成された側では「記憶の欠如」ないし「記憶の残滓」という形で現われ、物語上では「排除」の悲壮さを演出したり、キャラクターの神ジュナへの「抵抗」の狼煙となったりする。さて、このような「排除」に対してカルデア側は直観的に反発するわけだが、他方剪定インドで再構成される諸々の一般人にとっては多少の違和感はあれど大問題という風でもない。抵抗運動が組織されるのはまずコヤンちゃんの悪趣味な干渉を経てのことだし、アーシャちゃんが父の不在に違和感を覚えるのは多分にカルデアとの接触という経緯が影響していると考えられる(犬の時点では綺麗さっぱり忘れている。父は犬より、とは言えるだろうが)。つまり、「排除」=「再構成」は剪定インドの内側では問題となっていない単なる摂理に過ぎない。これを問題視している、させているのは少なくとも剪定インドの外の価値観であるとみる必要がある。
整理
☆カルデア側が問題視したのは①まず「不出来なものが排除されること」。②それは次第に神ジュナが「不出来」=「排除」の判定基準として振る舞うこと。へと具体化され、③その背景には「記憶の欠如」や「記憶の残滓」という形で表された「排除」に対する直観的な忌避感があった。
☆「排除」=「間違い」ではない/神ジュナとは異なる「不出来」規準が確かに存在し、それらはしかしカルデア側であったり、編纂事象出身のサーヴァントであったりと、いずれも剪定インドの外の価値観であった/「排除」が問題視される過程には剪定インドの外からの干渉があり、剪定インド内で神ジュナの規準が大きく問題視されたわけではなかった。
以上を踏まえて以下少し考えてみたい
②正しい輪廻の到来?
カルデア一行は神ジュナを倒し空想樹を切除し、もはや剪定インドは輪廻しない。マシュ(withぐだ)はどうしてもとアーシャに会い、父の存在を思い出させ、正しい輪廻の到来の可能性を夢想させる。なかなか問題含みの件。「記憶の残滓」を残すこと、マシュが為した行いを、意図は違えど既に行っていたのは他ならぬコヤンちゃん。思い出させること、は結果的に抵抗運動の呼び水となり、それは確かに意義のあることであったのかもしれない。しかしコヤンちゃんが好んで行うことからも明らかなように、それは剪定インドの一般人を苦しめることでもある。
だから良いとか悪いとかは一旦置いておくとして、そもそも剪定インドとはどういう世界でしたっけ。
ジナコはしきりと神ジュナの輪廻操作をゲームに例えて語っていたが、実際、剪定インドとは神ジュナがプログラムして稼働させているゲーム的空間だと言える。剪定インドという世界は、異界の使徒やクリプター、そしてカルデアからの干渉がなければ、神ジュナによって無限に巡らされ、浄化されていくだけの世界。他のロストベルトの王、例えば象さんやスカスカのように国や民という単位で思考し行動するのではなく、神ジュナにとっては神ジュナ自身と彼が巡らせる世界があるだけである。剪定インドとは神ジュナによって操作されるゲーム的空間であり、彼のゲームプレイ、いやむしろデバック作業が輪廻として語られている。そんな剪定インドからプレイヤー、デバッカーの存在が消え、プレイ=デバック作業も行われなくなった。カルデアの干渉を経た剪定インドとは、もはや稼働しないゲームプログラムのようなものだと考えられる。
剪定インド世界のゲーム空間性は、その世界を生きるキャラクター描写からも窺える。今回、剪定インドのキャラたちは分かりやすく自我のあるキャラ、自我の認められないnpcに二分されている。これは先に述べたように剪定インドの物語が政治反乱の組織という展開をみせる都合上、そこに生きる人々との交流が比較的密であったことからの帰結でもあるが、物語上プレイヤー目線で自我を認められるキャラとは「祈らず」「戦う」人々である。「祈る」村長は不自然なまでに輪廻に合わせてキャラが変わり、まさに剪定インドを生きる人のnpc的な様態を象徴し、他方で「戦う」ことを選んだ人々は初めてカルデア側と交流し、単なるnpcではない自我を持つものとして描かれる。剪定インドにおいて自我を持つのは神ジュナに「祈る」のではなく神ジュナと「戦う」人々であり、アジャイやアーシャなどの剪定インド側の重要キャラたちは「祈る」だけの在り方に違和感を持ち、次第に戦う意志を示す。注意したいのは、神ジュナのいる世界において、「祈る」にせよ「戦う」にせよ、その対象は神ジュナであり、つまり自我を持つか否かというのも神ジュナを規準に図られる。自我を持ち、npcの状態を脱することすらも、剪定インドにおいてはまず神ジュナが規準となるのだ。さて、物語終盤、神ジュナと「戦う」ことを選んだキャラは軒並み「排除」され、一番最後の輪廻の段階では「祈る」人、つまりnpc以外は存在しない世界となった。この中で唯一の例外はアーシャちゃんだ。先の輪廻においてアーシャちゃんは「祈る」人ではなかった。「戦う」父の負傷をきっかけに自身も「戦う」ことを選んだ。だが父だけが「排除」されアーシャちゃんは「戦う」理由を失う。最後のユガにおいて神将サーヴァントに石弓を向けたアーシャが、翌日には「祈る」存在と化しているのは、「父」という「戦う」理由を忘却した状態で再構成されたからだ。最後の輪廻の段階で「戦う」人々が「排除」され、抵抗を組織するというベクトルが頓挫したことから、プレイヤー目線ではほとんど一般人たちの描写が為されなくなる(等しくnpc化する)が、この段階で神ジュナの世界には唯一の例外としてかつて「戦う」存在であったアーシャちゃんがいるということになる。
マシュがアーシャちゃんに父の記憶の残滓を与え、父の存在を思い出させるという極めて残酷なこと(繰り返しになるが、この行為が残酷であることは私の価値観上の問題ではなく、それが本来コヤンちゃんの所業であることから物語上明らかである)を実行する背景には、アーシャちゃんが「祈る」存在ではなかったこと、単に神ジュナの世界のnpcではなかったこと、がある。マシュたちにとって、そしてプレイヤーにとって、アーシャちゃんはただ「祈る」存在ではなかったからこそ、父の存在を忘却したnpc状態に彼女を留めておく事は憚られる。例え剪定事象にも正しい輪廻がくる、などという嘘に支えられた欺瞞だとしても、われわれはアーシャちゃんをnpcのままにしておくことは、もはやできなかった。
ここまではプレイヤー目線の話である。「祈る」村長と「戦う」アジャイの間にnpcと自我を持つキャラの差異を見出すのは、あくまでプレイヤー目線である。言い換えれば剪定インドの外の目線である。また神ジュナなき後の剪定インドが稼働しないプログラムであるのも、剪定インドの外からの目線である。剪定インドの中を生きる人々にとっては、「祈る」村長も「戦う」アジャイも等しく同じ世界を生きる人に他ならない。みな等しく同じ世界を生き、同じ世界に対して等しく無知である。それは神ジュナが倒れ輪廻が止まった剪定インドにおいても同様である。もはや「祈る」人しかいない世界は、祈る対象のないままに、輪廻せず緩やかに終わっていく。人々は等しく無知のまま終わる世界で「祈る」。
さてアーシャちゃんは「祈る」対象がいないことを知らされる。彼女は「祈る」存在ではなかった。しかしもはや「祈る」存在である。そのことは彼女にとって、何も問題のないこと、当然のいつもの生、生きることだ。それは単に剪定インドの中では、神のゲーム空間の中では、という話ではもはやない。剪定インドはもはや神ジュナのゲームではないのだから、彼女たちが「祈る」ことは掛け値なしに端的に現実である。滅びゆく世界で「祈る」ことは彼女たちの現実である。マシュぐだの行為の問題点は、単にコヤンと同じ残酷な仕打ちをした、という点にあるのではない。神の不在において滅びゆく世界において「祈る」こと、それは端的な現実であり、そのことを認識させること自体は難しいことであったとしても罪ではない。マシュぐだの罪とは、滅びゆく世界で現実において「祈る」アーシャちゃんに対して、「到来するかもしれない正しい輪廻」という嘘の祈りの対象を与えてしまったことだ。剪定インドの人々は滅びゆく現実において「祈る」=「生きる」だろう。この最後の世界において、唯一の例外であったアーシャちゃんは、あるいは「祈り」の対象の不在に向き合い、その中でなお「祈る」=「生きる」ことができたのかもしれない。しかしマシュぐだは「正しい輪廻」を新しい「祈り」の対象としてアーシャちゃんに与えてしまった。既に確認したように、剪定インドにおいて「排除」を介して巡る「間違った輪廻」は単なる摂理だった。「間違った輪廻」において「祈る」ことはnpc的であったとしても嘘ではなかったはずだ。対してマシュぐだが語りアーシャちゃんに夢想させた「正しい輪廻」は、剪定インドにおいてはそれ自体端的に嘘だ。それでも神ジュナよりいくらか上等な神なのだろうか。神の不在を知らず、無知のまま「祈り」、しかしそれは確かに生きることである人々の中で、ただ一人だけが明確に嘘へと「祈り」続けるとすれば、われわれの行いは終わりゆく世界における唯一の例外に対してあまりに非道だとは言えないだろうか。
現実においてただ「祈る」中で、その合間夢の中で、大切なものに出会うためには、急ごしらえの嘘の神は必要ない。
というわけで、僕は最後のマシュの件は多分に問題含み(善悪とかではなく)だと思うのだけど、そういう行動、コヤンと同じような所業を我慢できずしてしまう、というマシュのエゴが垣間見える点でとても意義があったと思ってる。今回ペペさん経由で、強くマシュの人間味が強調された。オフェリアと恋バナした、なんてペペさんと盛り上がるマシュ。その背景にはぐだとのこれまでの物語があるわけだ。さて、基本的にマシュはぐだのサーヴァントであって、色々なことに直面するぐだについて、「先輩はそういう人です」と付いてきてくれる存在。ただ今回のアーシャちゃんの件はぐだ以上にマシュが主導している。ぐだはその行為の是非、意味について確信を持ち切れてはいない。マシュの人間味を強調した剪定インドのラストに、我慢できず主導的に行動してしまうマシュのエゴが改めて強調されるというの、それなりに意義のあることだよな、と思う。
あと、ホームズの21世紀が一番地獄発言については、また今度書く。
2部全体に対する自分の所感も併せて
ねたばれあり
①何と闘っていたのか。何が争点だったのか
・間違った輪廻
剪定インドの輪廻は間違った輪廻だった。この輪廻はおかしい、という最低限の直観が大義名分となり、カルデアは任務を遂行していく。
※剪定インドの輪廻が間違っていること、はカルデアが剪定インドを切除する直接の理由ではない。カルデアは剪定インドの輪廻が編纂インドのそれよりも優れていたとして、尚剪定インドを切除しなければならない。(そもそも果たして編纂事象の観点から、剪定事象の事柄に対して価値付けを行うことが可能なのか?という点は保留。編纂側からは剪定事象のどのような事柄も「間違っている」としか思えないのではないか。という想定は十分に可能ではある。)
これまでと同様、幸いにもカルデア(地獄を自称する21世紀の人たち)にとって間違っていると思われる世界を、正していくお話。カルデアの任務とは単に剪定事象を切除することだが、それを「間違った輪廻を止める」という大義でカモフラージュして物語は進行する。これ以上皮肉を込めてカルデアの任務の二重性に言及しても仕方ないので、後者の大義名分の方を掘り下げてみる。
・間違っているとは?
剪定インドの輪廻は、「不出来なものが排除される」輪廻。巡るたびに「不出来」と認定されたものが排除されていく。さて、この輪廻の何が、問題とされたのか。
その1:「不出来なものが排除されること」そのもの
輪廻において「不出来なものが排除されること」、自体がまず問われる。「不出来だからといって排除するのか!?」という批判は物語上出てきたが、もう少しその違和感の内実を問いたい。
というのも神話的倫理観において一般に(われわれプレイヤーがカルデアと同じ視点を持つと(少なくとも物語上は)想定するならば、編纂事象とはわれわれが生きるこの経験世界に他ならない(この点はホームズの21世紀は地獄発言などを鑑みても、fgoの編纂事象が現代のわれわれにとっての一般的な経験世界を想定していると考えることは不自然ではない。そもそもfgo第1部ラストのレイドバトルは、われわれの生きる世界と連動して2016年末に、2017年の存亡をかけた戦いとして演出されていた))浄化はスタンダードな思想であり、「排除」即「間違い」ではない。魂の浄化、というのは輪廻思想の基本的価値観である。「排除」がそれ自体端的に「間違っている」わけではないことは、例えばアスクレピオスの件に顕著であり、ようは程度の問題なのだ(毒と薬の境界は度合い(過ぎれば・・・)の問題である)。つまり、「不出来」「排除」という判断の程度、ないし規準が問題となっている。
その2:誰にとって「不出来」なのか
物語上、様々なキャラクターが「不出来」を担ったが、その判定基準は一様ではない。狂ナタ:自分と相容れない存在が同居する自身の様態が「不出来」。この判断基準は多分にナタ本人に委ねられている。テル:彼の場合、彼自身と神ジュナという2つの規準が存在する。神ジュナにとっては子供のについての記憶が「不出来」であり、対して彼自身にとってはその記憶の欠如こそが「不出来」である。テルの件では神ジュナの規準とテル(そして編纂事象側)の規準の対立が明確になる。アスクレピオス:彼の場合、神ジュナは無関心だが彼自身の暴走した価値観が剪定インド輪廻の排除の規準を対応しているかに(一見すると)描かれている。ここでは個別トピックが問題となるというより、その程度が問題となっていた。等々
まあともかく物語上、「不出来」規準が様々あったわけ。特に分かりやすいのはテルの件で、カルデア側にもテル自身にも、少なくともテルが子供について忘れているのは「間違っている」という共通の直観がある。ここで、子供についての記憶を「不出来」とみなした神ジュナが、問われることになる。つまり、神ジュナの「不出来」規準は直観に反する、ということ。一個人の決定が多角的に見て問題含みなのは当然のことで、剪定インドではまさに一個人の決定が「排除」の規準となっている点で、カルデア側(プレイヤー側)はそれを「間違っている」と断じることができる。となるとこの観点からみれば、われわれが剪定インドでやったことというのは、要するに独裁制に対する政治的な抵抗だった。(後述の通り剪定インドは一貫して神と世界の話で、これまでのように国、民といった枠組みがないが、プレイヤーの攻略は民族反乱を組織する、という政治的アプローチ。)
その3:「排除」の意味
剪定インドにおける排除ってなんでしたっけ。
剪定インドの輪廻は一周したタイミングでデータを抽出して、手を加えてロードし直すというもの。新たな輪廻上に残された各々の存在は、神ジュナによる再構成を経た存在だ。この諸々の存在の再構成の過程で、神ジュナによって「手が加えられること」が「排除」であった。この「排除」の痕跡が、再構成された側では「記憶の欠如」ないし「記憶の残滓」という形で現われ、物語上では「排除」の悲壮さを演出したり、キャラクターの神ジュナへの「抵抗」の狼煙となったりする。さて、このような「排除」に対してカルデア側は直観的に反発するわけだが、他方剪定インドで再構成される諸々の一般人にとっては多少の違和感はあれど大問題という風でもない。抵抗運動が組織されるのはまずコヤンちゃんの悪趣味な干渉を経てのことだし、アーシャちゃんが父の不在に違和感を覚えるのは多分にカルデアとの接触という経緯が影響していると考えられる(犬の時点では綺麗さっぱり忘れている。父は犬より、とは言えるだろうが)。つまり、「排除」=「再構成」は剪定インドの内側では問題となっていない単なる摂理に過ぎない。これを問題視している、させているのは少なくとも剪定インドの外の価値観であるとみる必要がある。
整理
☆カルデア側が問題視したのは①まず「不出来なものが排除されること」。②それは次第に神ジュナが「不出来」=「排除」の判定基準として振る舞うこと。へと具体化され、③その背景には「記憶の欠如」や「記憶の残滓」という形で表された「排除」に対する直観的な忌避感があった。
☆「排除」=「間違い」ではない/神ジュナとは異なる「不出来」規準が確かに存在し、それらはしかしカルデア側であったり、編纂事象出身のサーヴァントであったりと、いずれも剪定インドの外の価値観であった/「排除」が問題視される過程には剪定インドの外からの干渉があり、剪定インド内で神ジュナの規準が大きく問題視されたわけではなかった。
以上を踏まえて以下少し考えてみたい
②正しい輪廻の到来?
カルデア一行は神ジュナを倒し空想樹を切除し、もはや剪定インドは輪廻しない。マシュ(withぐだ)はどうしてもとアーシャに会い、父の存在を思い出させ、正しい輪廻の到来の可能性を夢想させる。なかなか問題含みの件。「記憶の残滓」を残すこと、マシュが為した行いを、意図は違えど既に行っていたのは他ならぬコヤンちゃん。思い出させること、は結果的に抵抗運動の呼び水となり、それは確かに意義のあることであったのかもしれない。しかしコヤンちゃんが好んで行うことからも明らかなように、それは剪定インドの一般人を苦しめることでもある。
だから良いとか悪いとかは一旦置いておくとして、そもそも剪定インドとはどういう世界でしたっけ。
ジナコはしきりと神ジュナの輪廻操作をゲームに例えて語っていたが、実際、剪定インドとは神ジュナがプログラムして稼働させているゲーム的空間だと言える。剪定インドという世界は、異界の使徒やクリプター、そしてカルデアからの干渉がなければ、神ジュナによって無限に巡らされ、浄化されていくだけの世界。他のロストベルトの王、例えば象さんやスカスカのように国や民という単位で思考し行動するのではなく、神ジュナにとっては神ジュナ自身と彼が巡らせる世界があるだけである。剪定インドとは神ジュナによって操作されるゲーム的空間であり、彼のゲームプレイ、いやむしろデバック作業が輪廻として語られている。そんな剪定インドからプレイヤー、デバッカーの存在が消え、プレイ=デバック作業も行われなくなった。カルデアの干渉を経た剪定インドとは、もはや稼働しないゲームプログラムのようなものだと考えられる。
剪定インド世界のゲーム空間性は、その世界を生きるキャラクター描写からも窺える。今回、剪定インドのキャラたちは分かりやすく自我のあるキャラ、自我の認められないnpcに二分されている。これは先に述べたように剪定インドの物語が政治反乱の組織という展開をみせる都合上、そこに生きる人々との交流が比較的密であったことからの帰結でもあるが、物語上プレイヤー目線で自我を認められるキャラとは「祈らず」「戦う」人々である。「祈る」村長は不自然なまでに輪廻に合わせてキャラが変わり、まさに剪定インドを生きる人のnpc的な様態を象徴し、他方で「戦う」ことを選んだ人々は初めてカルデア側と交流し、単なるnpcではない自我を持つものとして描かれる。剪定インドにおいて自我を持つのは神ジュナに「祈る」のではなく神ジュナと「戦う」人々であり、アジャイやアーシャなどの剪定インド側の重要キャラたちは「祈る」だけの在り方に違和感を持ち、次第に戦う意志を示す。注意したいのは、神ジュナのいる世界において、「祈る」にせよ「戦う」にせよ、その対象は神ジュナであり、つまり自我を持つか否かというのも神ジュナを規準に図られる。自我を持ち、npcの状態を脱することすらも、剪定インドにおいてはまず神ジュナが規準となるのだ。さて、物語終盤、神ジュナと「戦う」ことを選んだキャラは軒並み「排除」され、一番最後の輪廻の段階では「祈る」人、つまりnpc以外は存在しない世界となった。この中で唯一の例外はアーシャちゃんだ。先の輪廻においてアーシャちゃんは「祈る」人ではなかった。「戦う」父の負傷をきっかけに自身も「戦う」ことを選んだ。だが父だけが「排除」されアーシャちゃんは「戦う」理由を失う。最後のユガにおいて神将サーヴァントに石弓を向けたアーシャが、翌日には「祈る」存在と化しているのは、「父」という「戦う」理由を忘却した状態で再構成されたからだ。最後の輪廻の段階で「戦う」人々が「排除」され、抵抗を組織するというベクトルが頓挫したことから、プレイヤー目線ではほとんど一般人たちの描写が為されなくなる(等しくnpc化する)が、この段階で神ジュナの世界には唯一の例外としてかつて「戦う」存在であったアーシャちゃんがいるということになる。
マシュがアーシャちゃんに父の記憶の残滓を与え、父の存在を思い出させるという極めて残酷なこと(繰り返しになるが、この行為が残酷であることは私の価値観上の問題ではなく、それが本来コヤンちゃんの所業であることから物語上明らかである)を実行する背景には、アーシャちゃんが「祈る」存在ではなかったこと、単に神ジュナの世界のnpcではなかったこと、がある。マシュたちにとって、そしてプレイヤーにとって、アーシャちゃんはただ「祈る」存在ではなかったからこそ、父の存在を忘却したnpc状態に彼女を留めておく事は憚られる。例え剪定事象にも正しい輪廻がくる、などという嘘に支えられた欺瞞だとしても、われわれはアーシャちゃんをnpcのままにしておくことは、もはやできなかった。
ここまではプレイヤー目線の話である。「祈る」村長と「戦う」アジャイの間にnpcと自我を持つキャラの差異を見出すのは、あくまでプレイヤー目線である。言い換えれば剪定インドの外の目線である。また神ジュナなき後の剪定インドが稼働しないプログラムであるのも、剪定インドの外からの目線である。剪定インドの中を生きる人々にとっては、「祈る」村長も「戦う」アジャイも等しく同じ世界を生きる人に他ならない。みな等しく同じ世界を生き、同じ世界に対して等しく無知である。それは神ジュナが倒れ輪廻が止まった剪定インドにおいても同様である。もはや「祈る」人しかいない世界は、祈る対象のないままに、輪廻せず緩やかに終わっていく。人々は等しく無知のまま終わる世界で「祈る」。
さてアーシャちゃんは「祈る」対象がいないことを知らされる。彼女は「祈る」存在ではなかった。しかしもはや「祈る」存在である。そのことは彼女にとって、何も問題のないこと、当然のいつもの生、生きることだ。それは単に剪定インドの中では、神のゲーム空間の中では、という話ではもはやない。剪定インドはもはや神ジュナのゲームではないのだから、彼女たちが「祈る」ことは掛け値なしに端的に現実である。滅びゆく世界で「祈る」ことは彼女たちの現実である。マシュぐだの行為の問題点は、単にコヤンと同じ残酷な仕打ちをした、という点にあるのではない。神の不在において滅びゆく世界において「祈る」こと、それは端的な現実であり、そのことを認識させること自体は難しいことであったとしても罪ではない。マシュぐだの罪とは、滅びゆく世界で現実において「祈る」アーシャちゃんに対して、「到来するかもしれない正しい輪廻」という嘘の祈りの対象を与えてしまったことだ。剪定インドの人々は滅びゆく現実において「祈る」=「生きる」だろう。この最後の世界において、唯一の例外であったアーシャちゃんは、あるいは「祈り」の対象の不在に向き合い、その中でなお「祈る」=「生きる」ことができたのかもしれない。しかしマシュぐだは「正しい輪廻」を新しい「祈り」の対象としてアーシャちゃんに与えてしまった。既に確認したように、剪定インドにおいて「排除」を介して巡る「間違った輪廻」は単なる摂理だった。「間違った輪廻」において「祈る」ことはnpc的であったとしても嘘ではなかったはずだ。対してマシュぐだが語りアーシャちゃんに夢想させた「正しい輪廻」は、剪定インドにおいてはそれ自体端的に嘘だ。それでも神ジュナよりいくらか上等な神なのだろうか。神の不在を知らず、無知のまま「祈り」、しかしそれは確かに生きることである人々の中で、ただ一人だけが明確に嘘へと「祈り」続けるとすれば、われわれの行いは終わりゆく世界における唯一の例外に対してあまりに非道だとは言えないだろうか。
現実においてただ「祈る」中で、その合間夢の中で、大切なものに出会うためには、急ごしらえの嘘の神は必要ない。
というわけで、僕は最後のマシュの件は多分に問題含み(善悪とかではなく)だと思うのだけど、そういう行動、コヤンと同じような所業を我慢できずしてしまう、というマシュのエゴが垣間見える点でとても意義があったと思ってる。今回ペペさん経由で、強くマシュの人間味が強調された。オフェリアと恋バナした、なんてペペさんと盛り上がるマシュ。その背景にはぐだとのこれまでの物語があるわけだ。さて、基本的にマシュはぐだのサーヴァントであって、色々なことに直面するぐだについて、「先輩はそういう人です」と付いてきてくれる存在。ただ今回のアーシャちゃんの件はぐだ以上にマシュが主導している。ぐだはその行為の是非、意味について確信を持ち切れてはいない。マシュの人間味を強調した剪定インドのラストに、我慢できず主導的に行動してしまうマシュのエゴが改めて強調されるというの、それなりに意義のあることだよな、と思う。
あと、ホームズの21世紀が一番地獄発言については、また今度書く。